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【映画 ボヘミアン・ラプソディ】伝説のバンド〈クイーン〉を完全再現した最新映画レポート

北海道札幌市出身 20代後半の女性ライター

ボヘミアン・ラプソディがクイーンの代表曲のタイトルであることさえ知らなかった。

《イギリスのロックバンド》

《We Will Rock Youの足踏み・手拍子はなんとなくわかる》

《ボーカリストがエイズで亡くなっている》

映画 ボヘミアン・ラプソディにも興味がなかった。本当のことをいうとそうなのだ。ボヘミアン・ラプソディを映画館で視聴できる機会とあって、とりあえずいってみることにした。

ボヘミアン・ラプソディまでの映画予告で、レディ・ガガを主演にむかえた「ア・スター・イズ・ボーン」がピックアップされていた。知人がいっていたことを思い出す。

レディ・ガガはフレディ・マーキュリーにリスペクトしており、クイーンの〈Radio Ga Ga〉が由来になっているそうだ。初主演でアカデミー賞候補に名乗りを上げているのだから、なんだか感慨深いものがある。

ボヘミアン・ラプソディの主人公であるフレディ・マーキュリーが亡くなり、世界が哀悼に包まれた〈平成3年〉に誕生した女性ライターが、スクリーンでその「軌跡」ないし「奇跡」を追いかけて行く。

映画 ボヘミアン・ラプソディが興行収入50億円を越えようとするほどのヒットを記録しています。

今回は伝説のバンド〈クイーン〉のボーカリスト・フレディ・マーキュリーをクローズアップした話題作・ボヘミアン・ラプソディを映画館で視聴したうえで、クイーン、フレディ・マーキュリーについて説明しながら、映画の魅了を余すことなくお届けします。

ボヘミアン・ラプソディのオープニング 【1985】

 20世紀最大規模のチャリティー音楽イベント〈ライヴ・エイド〉。伝説的なバンド〈クイーン〉のハイライトともいわれていることは、クイーンについて知識があれば知っていることではないでしょうか。

ライヴ・エイドのステージへ向かうまでのフレディを追いかけるようにオープニングがはじまります。観客たちで埋め尽くされた会場がスクリーンいっぱいにひらけたところから、クイーン結成前夜まで遡ります。

ライヴ・エイドの迫力がダイレクトに押し寄せる映像。オープニングから惹きつけられる演出です。

伝説のバンド〈クイーン〉誕生 【1973〜1975】

 ヒースロー国際空港に勤務しながら、個人で音楽活動をおこなっていたフレディは、追いかけていたバンド〈スマイル〉のメンバーであるブライアン・メイ、ロジャー・テイラーとようやく出会うことができました。

クイーン結成前夜、歌唱力に自信を持っているフレディがスマイルのふたりに自分自身を売り込むやりとりが見所です。

スマイルはボーカルが抜けたばかり、そこに圧倒的な歌唱力を持つフレディが加わることになりました。はじめてのライブではスタンドマイクに悪戦苦闘している様子が描かれています。

スマイルにはベースもいなかったので「ベースはできるか?」といわれますが、フレディはあっけらかんと「できない。デザインならできるけど」といってのけています。そのため、フレディに続いてベースのジョン・ディーコンが加入しています。

ヒースロー国際空港で勤務しながら、隙間時間には作詞・作曲をして、クイーンのメンバーたちがワゴン車で迎えに来てくれます。アルバムの発売するため、フレディはワゴン車を売ることを提案します。こうしてデビューアルバム「戦慄の王女」を発売、セカンドアルバム「クイーンII」がヒットして知名度をアップすることになりました。

アメリカツアーを実現したサードアルバム「シアー・ハート・アタック」。その先行シングルであった「キラー・クイーン」で全英2位を獲得します。

戦慄の女王の収録風景から、身近にある様々なものを取り入れて、自由に音楽を生み出している様子がうかがえます。

ドラムにコインを撒き散らしてみたり。ボトルをおいてみたり。そうしてひとつの音楽ができあがっていく様子に、視聴者もワクワクします。

【ボヘミアン・ラプソディにない知識】フレディの生い立ちと音楽をはじめたきっかけ

フレディ・マーキュリーはパフォーマーとしてのもの。本名はファルーク・バルサラ。インド出身の両親のもとイギリス領であるタンザニア・ザンジバル島で誕生、幼少期をインド・マハーラーシュトラ州で過ごしています。両親とともにザンジバルに戻ったのは17歳のときです。しかしザンジバル革命により、程なくしてイギリスに亡命します。

インドで生活していたときはピアノを習っていたといいます。スクールバンドを結成してラジオから聴こえてくる音楽をピアノで再現することができたそうです。

【ボヘミアン・ラプソディにない知識】フレディの専門はデザインだった

イギリスに移住したフレディはデザインを専門的に勉強しています。クイーンの初期アルバムの絵画的なロゴは、フレディがデザインしたものです。

バイオグラフィーには前職としてイラストレーターと記載されています。もっとも、実際にイラストレーターとして活動していたことは確認できていません。

代表曲〈ボヘミアン・ラプソディ〉ができるまで 【1975〜1979】

ボヘミアン・ラプソディはクイーンの代表曲ともいえるものです。ロックとオペラの融合はまさに前代未聞。オペラの迫力を再現するため、メンバーたちはテープが擦り切れる寸前まで高音パートを収録しています。

フレディの「もう一度」にドラムのロジャーがやけくそになりながら高音コーラス部分を繰り返しているシーンは、まさにテープが擦り切れる寸前だったということに説得力を持たせています。

都会の喧騒から離れた農村に設置したスタジオに泊まり込みで制作をしている様子がうかがえます。それぞれの音楽に対する意見がぶつかり合いながら、切磋琢磨して音楽を生み出していっているクイーンにリアリティーが感じられます。

ロックなのにアカペラパートからはじまり、そこからバラードパートに移り、オペラが歌い上げられ、ハードロックに盛り上がり、バラードでエンドする。ボヘミアン・ラプソディは「長すぎてラジオで流せない」と批判されました。それでもラジオ司会者の理解を得て、ラジオでも流された結果、大ヒットを記録することになりました。

そして、クイーンの記念すべき4枚目アルバム「オペラ座の夜」はボヘミアン・ラプソディのヒットもあって、イギリスチャートではじめて1位を獲得しました。このアルバムでクイーンの地位は確固たるものになったといえます。

5枚目アルバム「華麗なるレース」、6枚目アルバム「世界に捧ぐ」もヒットします。この6枚目アルバムには、クイーンを代表する「伝説のチャンピオン」「ウィ・ウィル・ロック・ユー」が収録されています。7枚目アルバム「ジャズ」も好調であることはいうまでもありません。

アルバムセールスと同時に世界各国でツアーを敢行、いずれも成功をおさめていることがあげられます。初来日時には羽田空港に3000人というファンが押し寄せています。

【ボヘミアン・ラプソディにない知識】タイトルの意味は迷宮入り

ボヘミアン・ラプソディというタイトルの意味は迷宮入りしているといえるでしょう。なぜなら、タイトルを提案したフレディが明らかにしていないからです。クイーンメンバーそれぞれにも見解があるようですが、それも語りたくはないといっています。

フレディ・マーキュリーの光と陰 【1979〜1985】

 世界的なバンドに成長したクイーンの中心人物であるフレディ・マーキュリーは孤独にさいなまれるようになっていきます。音楽に打ち込むことができない時間を埋め合わせるように、夜な夜なパーティーを繰り返します。

フレディにはクイーン結成前後から交際しているメアリー・オースティンがいました。プロポーズまでしていますが、結婚話そのものはうやむやになっています。フレディには同性愛的傾向がありました。このことが、メアリーとの結婚に踏み切らなかった理由になっています。

結婚もしていない、こどももいないフレディ。メンバーたちにはそれぞれ妻子がいました。クイーンメンバーのことを「家族」として大切にしていたフレディでしたが、自分には家族がいないのに、みんなには家族がいるのだと孤独を深めていきます。

その結果、ソロ契約の話が持ち上がったことをきっかけに、クイーンから距離をおいてしまいます。マネージャーであり同性愛者でもあるポールの存在もありました。

ポールにマネジメントされながら、ミュンヘンでソロアルバムの制作をおこなうフレディ。心配してやってきたメアリーに「ポールはあなたのことを考えてはいない」という言葉からクイーンに戻ることを決意します。

紆余曲折ありながら、メンバーたちはフレディを受け入れ、世界的なアーティストが参加するチャリティー音楽イベントであるライヴ・エイド出演に向けて活動をはじめます。

〈クイーン〉最大のハイライト ライヴ・エイド 【1985〜1991】

 クイーンメンバーと活動を再開したと同時に、エイズ感染が発覚するフレディ。世間話でもするように、メンバーにエイズであることを打ち明けます。同情は必要ない。限られた時間で音楽をすること。それを人々に提供すること。そのためには、クイーンメンバーが必要なのだといいます。解散危機をざたされていたクイーンは、ここで心をひとつにしてライヴ・エイドに挑みます。

オープニングのライヴ・エイドのステージに向かうフレディは、至近距離であったためひとりのようにみえました。ですが、距離をおいてみると、フレディの後にはクイーンのメンバーが続いています。孤独に苛まれたフレディがひとりではないことを映像だけで表現しています。

映画では圧巻のライブパフォーマンスが逃さず描かれています。クイーンのライブが盛り上がれば盛り上がるほど、チャリティーの電話募金が殺到しました。

ライヴ・エイドで完全復活を遂げたクイーン。完全再現といっても過言ではないでしょう。映画を視聴してから比較してみると、グランドピアノにのせられているペプシの紙コップからフレディのピアノの鍵盤をはじく指先まで、すべてが一致するのです。

クイーンのサウンドに映画館が振動するほどです。クイーンメンバーからの視点、カメラマンからの視点、観客からの視点、空からの視点、いずれもライヴ・エイドの会場にいるかのような臨場感です。映画館のチェアに腰掛けていることが信じられなくなります。

こうして、ボヘミアン・ラプソディはエンディングをむかえます。クレジットでフレディが1991年11月24日にエイズの合併症によって亡くなりました。劇中でも描かれていた恋人・ジム・ハットンは最後の瞬間までともにいたことが説明されています。

【ボヘミアン・ラプソディにない知識】ライヴ・エイド以外にも活動している

伝説的な復活を遂げたライヴ・エイドの開催からフレディが亡くなるまでの6年間、クイーンは精力的に活動しています。すぐに新曲のレコーディングをおこない、立て続けにアルバムも発表しています。さらに世界各国でツアーもおこなっています。亡くなる2ヶ月前には最後のアルバム「イニュエンドウ」が販売されました。

映画 ボヘミアン・ラプソディのリアリティーとは

映画 ボヘミアン・ラプソディにはクイーンメンバーであるブライアンとテイラーが音楽プロデューサーとしてたずさわっています。映画としての物語性を追求するため、程度がどうであれ脚色されている部分もあるでしょう。ですが、当事者の視点が加わっているため、これまでのドキュメンタリー以上にクイーン、ひいてはフレディ・マーキュリーにリアリティーがあることは疑いようのない事実です。

実際に、音源は生前のフレディのものを採用しているそう。視覚・聴覚ともにリアリティーを追求した映画になっています。

最後に

ボヘミアン・ラプソディのエンドクレジットで立ち上がる観客はいなかった。

レイトショーにも関わらず、エンドクレジットがスクリーンから消えていくまで、23時過ぎの映画館にはりつけにされていたのだ。

ライヴ・エイドで復活を遂げるクイーン。圧倒的なパフォーマンスを披露するフレディ・マーキュリーに涙があふれてきた。どうしてかは説明しようがない。スクリーンにアップされる観客も涙を浮かべていることには気が付いていた。

世界各国に衛星中継されたというこのライブのことも、母親が生後間もない自分をあやしながらフレディ・マーキュリーの訃報を知ったことも……知るはずがない。

クイーンを知らない世代であっても、フレディ・マーキュリーの生き様、そしてクイーンが生み出すサウンドに心を奪われずにはいられない。

クイーンを知らない、フレディ・マーキュリーを知らない、そんな平成生まれにボヘミアン・ラプソディをみてもらいたい。その一言につきるだろう。

言葉にはできない、音楽という感動があるはず。それはきっと、これから生きていくための「糧」となるに違いありません。フレディの言葉をかりるのであれば、「そして俺はただ、ひたすら行く。そして行く、行く、行くだけだ」でしょう。

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