【忠臣蔵 12.14】赤穂浪士の顛末とは? 実は大石内蔵助のリーダーシップは現代にも必要だった

【忠臣蔵 12.14】赤穂浪士の顛末とは? 実は大石内蔵助のリーダーシップは現代にも必要だった

忠臣蔵のハイライト〈討ち入りシーン〉でひるがえる「だんだら模様」の羽織り。そして、時代劇らしい大太刀回り。テレビ画面に釘付けになった経験もあるのではないでしょうか。忠臣蔵の討ち入りがあった旧暦12月14日にちなんで、年末・年始には忠臣蔵ドラマがよく放送されています。

参照:浮世絵検索

江戸時代後期……仮名手本忠臣蔵として知られていました。歌舞伎は連日大盛況。そんな忠臣蔵を新撰組局長になる近藤勇、副長になる土方歳三もみていたようです。

新撰組のユニフォームに忠臣蔵の衣装である「だんだら模様」の羽織りを取り入れました。赤穂浪士のように〈武士らしく〉あるようにという意味が込められているといいます。

鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦い、会津戦争、そして箱館戦争……新撰組として戦い抜いた土方歳三は〈最後の武士〉といわれることもあるほどです。

そんな土方歳三もフォーカスしていた忠臣蔵。赤穂浪士の顛末はなんとなく知っているのではないでしょうか。ざっくりいって、討ち入りして、吉良上野介を仕留める……といったところ。赤穂浪士が想像以上の大所帯であるため、登場人物でも混乱してしまいます。

ですが、忠臣蔵の見所はこれだけではありません。複雑に絡まり合う人間模様、赤穂藩主である浅野家の再興、実はすごいラストシーンなど枚挙にいとまがありません。

なにより、赤穂浪士を取りまとめた【大石内蔵助】のリーダーシップには目をみはるものがあります。現代にもこんなリーダーシップが必要かもしれないと思うのではないでしょうか。

そこで今回は、忠臣蔵が討ち入りをした12月14日に先駆け、赤穂浪士の顛末とともに、注目したい大石内蔵助のリーダーシップについてご紹介します。

【1分でわかる】忠臣蔵のあらすじ

忠臣蔵は江戸時代中期、生類憐れみの令で知られている徳川綱吉治世にあった赤穂事件が題材になっています。現在の兵庫県の西側にあったのが赤穂藩です。赤穂の塩が特産品でもあります。

赤穂藩藩主・浅野内匠頭が天皇の勅使の接待になります。接待のしきたりを熟知している江戸幕府の家臣のひとり、高家肝煎・吉良上野介を頼ることになりました。ですが、このふたりの関係はうまくいきません。結果的に、浅野内匠頭が吉良上野介を切りつける、殺人未遂事件を起こして、切腹を余儀なくされました。

〈お取り潰し〉となった赤穂藩では、赤穂藩士たちが失業して無職・浪人となってしまいます。ここで立ち上がるのが、赤穂藩の家老・大石内蔵助です。赤穂藩お取り潰しを撤回するべく奔走しますがうまくいきません。そのため、主君・浅野内匠頭の命日でもある元禄15年12月14日に吉良邸へ討ち入りをしてその首をとりました。

【ピックアップ 5人】忠臣蔵のメイン登場人物

参照:文化デジタルライブラリー

忠臣蔵でこれだけは知っておきたい登場人物をピックアップしました。たくさんの赤穂浪士ばかりでなく、吉良サイドにも魅力的な登場人物がいます。

大石内蔵助(おおいしくらのすけ)

赤穂藩内で生まれ育った赤穂藩家老であり、吉良邸討ち入り時は45歳でした。

20代で筆頭家老となり、浅野家が松山城の請取役に任じられたときは、新城主が入場するまでの1年9ヶ月にわたって松山城で在番をしています。年若い藩主から信頼されていたことがうかがえます。

赤穂藩がお取り潰しになるとき、赤穂城を明け渡した上で、浅野家再興をおこない、かつ吉良上野介への処分を訴えることで藩内をまとめあげました。

赤穂城お取り潰し後、京都・山科で浅野家再興のために活動します。浅野家再興が絶望的となり、赤穂浪士を率いて吉良邸に討ち入りしました。

赤穂藩の優秀な家老であり、剣術の腕前もさることながら、絵画もたしなむという一面を持ち合わせていました。また意外なことに、プライベートでは放蕩癖があったかもしれないという指摘もあります。

吉良上野介(きらこうざのすけ)

赤穂浪士に討たれる〈ラスボス〉としてのイメージがつきまといますが、実は想像以上にすごい人物でもあります。室町幕府を興した足利一族の末裔であり、江戸幕府の家臣としての地位を確立していました。討ち入りのときには、すでに62歳の老体であり隠居の身の上でした。

忠臣蔵のドラマでは「袖の下」を要求するシーンがありますが、実際にそのようなやりとりがあったかはわかりません。

青年時代は美男子で、米沢藩主の妹にあたる三姫に見初められて結婚したという、事実かどうかはっきりとしない逸話もあるほどです。三姫と結婚したことは事実であるため、当代の米沢藩主が義理の兄にあたります。米沢藩主が急逝したため、長男を養子として送り出しています。そのため、藩主が実の息子になるわけです。以来、度々上杉家が経済的支援をしていることもわかっています。

実は、領地である三河国幡豆郡では、治水事業・神殿開拓の業績をのこしています。現在、その一部地域は吉良町という地名にもなっています。

浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)

赤穂藩の藩主として順調にステップアップしていました。吉良上野介殺害未遂当時は35歳です。赤穂藩藩主になってから、参勤交代によって赤穂・江戸を一年ごとに行き来しています。殺害未遂事件の動機は遺恨があるとのみ、詳細を語ることなく切腹しました。

この当時、比較的朝廷を軽視する傾向がありました。ですが、浅野内匠頭は一貫して天皇家を尊重していたことはあまり知られていません。

このとき、天皇家は勅使を派遣しており、浅野内匠頭はその接待をおこなっておりました。京都に戻ってきた勅使に対して、東山天皇は浅野内匠頭を見殺しにしたことに憤慨、当分参内禁止にしています。

小林平八郎(こばやしへいはちろう)

吉良上野介のために二刀流をもって奮戦したといわれている剣客です。女性のような服装をしていたともいわれています。打ち掛けをかぶって、すぐに吉良上野介のもとに駆けつけたといいます。

吉良上野介の妻にあたる上杉家の三姫が嫁入りするときに、上杉家から付き従ってきた家臣であったともいわれていますがさだかではありません。

しかし、吉良上野介からもっとも重宝されていたことは、与えられていた「石(給料)」からわかるとおりです。

堀部安兵衛(ほりべやすべえ)

赤穂浪士の剣豪として知られている堀部安兵衛は、赤穂出身者ではありません。新潟の新発田藩で藩士の嫡男として誕生しています。ですが、父親が罷免されてからまもなく孤児になります。姉の嫁ぎ先で面倒をみてもらってましたが、十代後半には江戸の剣術道場で修行していたといいます。剣の腕前だけで生活できるほどでした。

赤穂浪士との関わりは、助太刀に駆けつけた高田馬場の決闘がきっかけです。このときの奮闘ぶりに、赤穂藩士・堀部金丸が養子にほしいといったのです。すぐに承諾したわけではありませんでしたが、結果的に堀部金丸の娘と結婚して婿養子になりました。以来、赤穂の地で赤穂藩士として生活します。

吉良上野介殺害未遂事件のときは、江戸詰で現地にいました。吉良邸に討ち入りをしたときは36歳です。

【疑問】どうして浅野内匠頭は吉良上野介を恨んだのか

「遺恨あり」としか動機をいわなかった浅野内匠頭。何かしらの恨みがあったことがうかがえますが、いったいどのような恨みがあったのでしょうか。ここでは、その疑問について検証していきます。

動機① 〈袖の下〉が少ないことに不満を持たれた

天下泰平の江戸時代では、平和がゆえに賄賂も横行しました。浅野内匠頭からの賄賂が少なかったため、気分を害した吉良上野介が嫌がらせを続けたともいわれています。

これまで、接待経験があったのに、不自然なほど浅野内匠頭が失敗していたのも、嫌がらせとしてうそを教えられていたからともいわれています。

動機② 接待費用で揉めた

塩田収益があるにしても、赤穂藩の財政状況は逼迫しており、浅野内匠頭は立て直しをしていました。接待役を引き受けるということは、それだけ支出がかさむということです。自藩の財政が気がかりであり、必然的に簡素な賄賂になった可能性もみられます。実際に、この接待役を何度か辞退していますが、断りきれずに引き受けています。

そのため、接待費用の負担も最小限にとどめようとしたようです。物価が高騰していながら、浅野内匠頭は前例にならって700両でおさえようとしており、吉良上野介と意見を衝突させた可能性もあります。

動機③ 美人妻に吉良上野介が懸想した

浅野内匠頭には阿久里という美しい妻がいました。赤穂藩同様安芸藩の支藩である備前三次藩藩主の娘です。この阿久里に吉良上野介が懸想したことが、遺恨の理由としてあげられることがあります。実際、そのように示唆している忠臣蔵作品も少なくありません。

討ち入りじゃない! 実はすごい忠臣蔵のラストシーン

忠臣蔵のラストシーンは討ち入りではありません。どうしてもハイライトである討ち入りをイメージしてしまいますが、実際は赤穂浪士47人の切腹がラストです。

赤穂浪士たちは逃げも隠れもしませんでした。潔くつかまります。

世間が赤穂浪士を支持していたことから、幕府も対応に苦慮しました。結果的に処罰は免れないながらも、罪人として斬首するのではなく、武士として切腹することを申し渡したのです。

現代人もフォーカスすべき  大石内蔵助のリーダーシップ

忠臣蔵の主人公でもある大石内蔵助には、新撰組副長として実質的に組織運営に当たっていた土方歳三がフォーカスするほどのリーダーシップを持っている人物です。現代社会では組織を引っ張るだけのリーダーシップを持たないトップも珍しくありません。

ここからは現代人がフォーカスすべき、大石内蔵助のリーダーシップを検証します。

リーダーシップ① 藩主切腹後の藩内を見事にまとめた

当時、40代でありながら藩主切腹後の藩内を見事にまとめています。赤穂藩では大人しく赤穂城を受け渡そうという意見と、徹底抗戦をするべきという意見とがぶつかっていました。双方の意見をまとめて、赤穂城を明け渡してから、浅野家再興をおこなうと同時に、吉良上野介への処罰を訴えることを提案しておさめました。

意見がぶつかったとき、リーダーは双方の意見をうまくまとめることができなければなりません。双方が納得できる妥協点ともいえるかもしれません。

リーダーシップ② 綿密な計画をもとに人員を配置できる能力

赤穂浪士の討ち入りでは、メンバーは負傷するものの死者はひとりもでていません。それは綿密な計画をもとに、適切に人員を配置することができていたからです。正確な吉良邸の情報を仕入れることにも抜かりがありませんでした。

リーダーシップは綿密な計画があってこそのものです。トラブルがあったときは、状況に応じての判断も必要にはなりますが、無計画な人間にリーダーシップがともなわないことはいうまでもありません。

最後に

忠臣蔵が討ち入りをはたした12月14日をむかえようとしています。まずは、この機会に忠臣蔵というひとつのストーリーを堪能してみてはいかがでしょうか。江戸時代中期以降、いつの時代の人々も楽しんできた作品に触れてみることで、様々な気づきがあるはずです。

また、忠臣蔵のストーリーを知ったうえで、赤穂浪士を率いた大石内蔵助のリーダーシップにも注目してみましょう。ビジネスパーソンとして必要なリーダーシップがみえてくるに違いありません。来年のビジネスにつなげていきましょう。

 

この記事のライター

muramoto mutsumi

北海道札幌市出身(20代後半)趣味で恋愛小説を執筆する恋愛体質なフリーライター。男性のためになる女性視点の恋愛記事を心掛けています。

この記事に関するキーワード

キーワードから記事を探す